「赤毛のアン」は大好きな小説なので見ました。
ヒロインのアン役は撮影時16歳だったメーガン・フェローという女優で、私のイメージのアンより強い感じでしたが、まあ良かったです。
小説を読んでいた時も漠然と感じていましたが、結婚に至るまでの手順が様式化されていて、その様式を誰もが疑問を持たずに大切にしているのが、面白く思いました。
結婚は、子育てをオスメスの番が協力して行う事を世間に公表し、主に子育て本能が弱いオスが逃げられないような義務感を植え付け、メスにも安心感を与える良い方法です。
これによって、人間という種の保存が相当安定感を増したと思います。
しかし、本来は種の保存方法の手段に過ぎないはずの「結婚」という様式が、当時の社会でいかに無批判に、人間をしばっていたかを思うのです。
物語の中に2人のオールドミスが出てきますが、その2人の負け犬感が大きく、「子作り、子育ての方便に過ぎない」と割り切った見方が出来れば、彼女達の人生がもっと楽になったろうにな~と思うのです。
その手順は、
男が女の家を何度も訪問し、お茶や食事を共にします。
女とその家族が男をどう思っているかが徐々にはっきりしてきて、嫌だとなるともてなしの方法にも差が出るのでしょう、何度も訪れるって事は女側にも受け入れる気持ちがあるって事になり、2人の結びつきが社会からも認知されるようになります。
「あの男は、xxxの家を、2年も通っている。いったいいつ求婚する気だろう。」って感じです。
アンの社会では、アンは日本なら大百姓にあたる階級だと思います。
実りが日本より格段に豊かなので(一個あたりの耕地面積が広い)、大百姓階級が多く、普通の人に描かれていますが、使用人がいる家が多いので明らかです。
その支配階級の下層という人口の多い人たちが、優雅なそして比較的自由な「結婚の手順」を踏むのです。物語が豊かになるはずですよね。
日本の場合、セックスがもっと露骨、あるいは社会的締めつけが緩いので、逆に男女7歳にして席を同じくせずといった厳しい社会規範が出来てしまったと思います。
勿論、儒教の影響は大きですが。
許されない子供が出来てしまった時の社会的制裁が、アンの社会の方が厳しいと思います。だから、逆に自由な選択の出来る社会になり得たのではと思います。
自重しますからね。
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