群発地震に対して安全宣言を出した、行政と学者が告発されて、今も被告として裁判が続いている。というNHK BS の番組を見ました。
イタリアでの出来事でした。
興味深い内容で、何がいけなかったのか、日本ではどうかと思いながら見てました。
裁判の争点は、誰(学者)が安全だと言ったのか、どうして安全だと言えた(行政)のか、が主な争点のようでした。
私の一番の違和感は、行政の一部が安全宣言を出そうとして学者を集め、学者の大地震の可能性が低いという意見を聞いて、出した。
という組織感の無い処にあります。
行政の、できる事と出来ない事、やって良い事と悪い事、の線引きがされていないように見えたのです。安全宣言など出せるはずがないというのが日本では常識でしょう。
胡散臭い学者の「警告」による不安を拭いたい、との伏線があったようですが、レベルが低いな〜と一旦は思いました。
でもね、今はこれが日本と外国の違いかも知れないと思いはじめています。
誰が責任者なのか?という問題です。
日本の行政の責任問題では、最後まで個人は出てきません。組織相手の訴訟になることがほとんどです。一方、今回の報道では最初から、行政の責任者xxx、学者xxx と個人名です。これって、文化の違いなのでは?
WWⅡ での戦犯裁判の時の、「こうなった」と言いたがる(主語が無い)日本人被告に対して、「こうした」(主語がある)と言わせようとする外人裁判官 みたいな。
どうですか?
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